九段下 玉川堂物語〈その2〉

【九段坂の図(明治30年頃)】
 筆と中国は縁の深いことはもちろんですが、犬養毅首相(二・二六事件で暗殺されましたが)は、号を木堂といい、多くの中国人政治家や文化人と接触し、また、大いに擁護し、接待しました。

 犬養木堂は、玉川堂に「芸苑崑玉」という額や「翰墨因縁」をくださいました。乃木希典将軍は、「健筆凌雲」という額を書いてくださいました。画家でもあり、書家でもあった中林梧竹は、「春華秋實」という額を書いてくださいました。中国の偉大なる大画家・張大千先生(敦煌の壁画を、今から六十年前にこもり、模写した有名な四川省成都出身の大画家。台湾に亡命し、後に蒋介石総統の一代記が、台北の中正記念堂に掲げられております)は、玉川堂の筆、とくに山馬筆を愛し、名筆の四つの要素として「鋭齊健圓」という額を書いてくださいました。中国最後の皇帝・溥儒先生は、いつまでも商売が繁昌するようにと、「駐鶴」という字を送ってくださいました。

 こんな小さな店にも、先祖が努力した結果として、多くの人々が沢山出入りしてくださいました。有名な方ばかりではなく、娘時代から三代に渡って私共の筆を御愛用いただくお客様がおられることが最大の宝です。

 そうそう、ご近所の飯田橋で若い頃活躍された田中角栄元首相は、書道の大好きな首相でしたが、中国と国交回復なさった時、毛沢東主席に、いろいろなお土産をお持ちになりましたが、その一つに私共の大きな筆、それは直径十五センチメートルぐらい、長さ二十五センチメートルの純日本産の馬毛筆でした。その銘は「驃騎大将軍」(司馬遷の史記に出てくる、日本でいう征夷大将軍と同じ武官の最高位の名称です)という景気のいいお名前の筆でした。いかにも華やかで、明るく派手な事の大好きな田中さんにふさわしい筆です。中国は筆の本場ですが、あんなに馬がいながら、馬毛の筆はありません。中国の文人に最もよろこばれるのは馬毛の銘筆なのです。さぞや毛沢東主席もよろこばれたことでしょう。毛沢東主席は大書家ですから。

 最近の九段下、神保町には、昔の数十倍の外国人(米国人、仏国人、英国人)がたくさん歩き、あるいは生活しております。嘘だとお思いでしょうが、白系ロシアかユダヤ系のロシア人で、ボストンに生まれ、東洋の文物、哲学、美術に詳しいアメリカ人ニコライさんがおられます。奥様はフランス人で、一年の半分はパリのノートルダム寺院の近く、セーヌ河畔のアパルトマンに住む御夫妻がおりますが、この方が中国の有名な書を独学で学び、それは素晴らしい書を書く方がおります。毎年、この御夫妻がくるのが待ちどおしいのです。本当に西洋人の中には、書のすぐれた理解者はいるのです。

 中国の文化の伝統の中に、良きにつけ、悪しきにつけ、孔子思想が脈々と流れていますが、今、台湾に大陸から逃れた孔子の後裔、百七世の孔徳成先生がおられますが、孔徳成先生は、お若い頃、日本に留学され、こよなく神田の神保町本屋街を愛されました。年に幾度か訪れますと、三省堂のあたりから小宮山書店、一誠堂書店、飯島書店、そして、山本書店の漢籍をのぞき、最後に玉川堂に寄り、筆を幾本か買い求めるのが楽しみだそうです。お別れに幾度も幾度も手を組み、挨拶をかわす。良き中国伝統を守る方を見るのは、楽しくうれしい事です。

 大正時代は神保町一丁目から二丁目、私共の店のある三丁目(昔は今川小路といっておりました)は、横浜の中華街や晩翠軒で有名な田村町や虎の門よりも、もっと沢山の中国料理店があったそうです。(中国通の後藤朝太郎の本による)

 是非、神保町から九段下駅に来られる時は、専修大学前の交差点を渡り、今川小路の玉川堂へお立ち寄り下さい。

 最後に私共が最も御ひいきいただいた明治・大正・昭和の大書家長三洲、日下部鳴鶴、渡辺沙鴎、厳谷一六、小野鵞堂、阪正臣、丹羽海鶴、鈴木翠軒、尾上柴舟、田代秋鶴、高塚竹堂、手嶋右卿、金子鷗亭、日比野五鳳、今関脩竹先生方により、私共の銘筆が生まれ育ちました事を心に銘記いたします。合掌。